しばらくの記憶

(故)初代・外村泰徳の記憶帳を参考に。。。
1953/06/08    終戦後
終戦後、衣納袋1袋、無料乗車券1枚、数十円のみを持ち 帰る。
幸い 命あればこそ 帰れることは嬉しい。
 
さて復員したけれど終戦3年後にもなれば仕事は全然なし。
木炭トラックに乗り山奥に材木出し、親戚の世話で郵便局、家具製作所、素麺製造所、職を転々とするが、どれも親、妹を養うには給料安し。
 
その頃炭坑が一番景気が良く、八幡製鉄所に就職。
 
大落盤があり、19名死亡。危険なので辞める事にした。
給料は良く、米の配給が食べて残り、余りは売っていた。
1年2ヶ月だった。
 
後 博多へ出る。
 
1年7ヶ月間 中州でリンタク。
朝鮮戦争が始まり まだタクシーも少なく、米兵相手に儲ける事ができた。
1953/06/09    開店
昭和28年6月9日
屋号「しばらく」で 福岡市対馬小路、大浜特飲街で店舗開店する。
 
知り合いが多いので繁盛すると思いきや、知り合いからお金をとれず、掛け倒れ。
中州でなら良かろうと思い、店舗でなく屋台を那珂川の春吉橋で出すが、やはり結果は大浜も中州も同じこと。掛け倒れする。
1956/06/09    西新
行き先に困り途方に暮れ 思案した結果 今から先の将来は西区方面にしか発展する処なしと判断する。
ただし、西新町は早良、姪浜、城の原、地行と博多でも指折りの柄の悪い処だが、乗るか反るか、大浜・中洲での掛け倒れの経験を覚悟で、同じ結果に終わっても後悔はしないと腹に決めて、
笛吹き(チャルメラ)6名を連れ 西新町、城南線に屋台を出す。
 
1956/06/16    屋台
大浜、中洲でもそうだったが、商売始めは笛を吹いて回ると按摩さんとか焼き芋屋とかに間違えられ、慣れるのに半年かかる。
夕方5時より、朝の1番、2番電車が通るまで一晩中屋台で頑張って 15〜20杯の有様で笛吹きの出前でどうにか食い繋ぐ。
1957/04/14    出会いと結婚
隣の屋台「即席天麩羅」柳川さんの奥さんの妹さんが岩田屋に勤めていたが、時々隣に来ては良く働いていた。
普通 若い娘さん達は屋台などには敬遠して加勢どころか近寄らない。
だが実に一生懸命働いている姿が目に焼きつき 思い切ってデートを申し込む。
あとは縁あって「昭和32年4月14日」に結婚。
 
 
1957/06/09    100杯
一年後より100杯を越し、どうにか商売になる様になったので 熊本の田舎より、母と妹を呼び 数年ぶりで一緒に暮らすようになる。
1958/03/21    長男誕生
城南線の屋台では朝の電車の通るまで働いた。
静香は長男の貢一が産まれる前の日まで頑張った!
無事 長男貢一(現2代目)の誕生。
 
 
 
写真右から 長男貢一(2代目)
        妻 静香
        母 キヨ
        妹
1959/06/18    屋台から店舗へ
屋台の場所にスーパー丸栄が出来るということで 僅かな立ち退き料を貰い 現在の場所に移転する。
昔 金物屋さんの後を借家で借り店舗として開店する。
1962/09/10    仕事
人様は商売は儲かると一言で片付けるが、以ての外。私たち夫婦は一日16〜18時間は働いた。
ただ眠る時間が欲しかった。
出前の関係で常備店員は5〜6人は雇っていたが 店の休みは月に一度。
店員達は日に2度の交代制にしていた。
1977/10/10    長男の結婚
昭和52年10月10日、長男貢一の結婚式。
 
私たち夫婦はどうにか成人させた矢先の あまりにも早い結婚話に驚く。
仕事と子育てにひと段落着いたばかり。気持ちの整理に手間取る。
 
夫婦すぐにも生活するには 今の店を継ぐのが手っ取り早いと思い留美さん(お嫁さん)の気持ちを確かめる。
サラリーマンの家庭と商売人の家庭とはすごく開きがあり 生半可なことでは出来ぬと訊ねると 留美さんは「出来るだけやってみる」と答えてくれた。
 
商売人の嫁というのは 夫、店、子供、家庭・・と1人何役もやらねばならず、店が繁盛し成功するしないは嫁の双肩にかかっていると言っても過言ではない。 頑張ってもらいたい。
 
1978/07/12    初孫
貢一、留美夫婦に 長女 誕生。
1980/06/24    母(キヨ)の永眠
苦労の掛け通しだった婆ちゃんはビル(現在本店ビル)の完成前に血圧低下から肺炎になり、昭和55年6月24日午前6時72歳で他界する。
元気なうちに一度、満州鞍山に連れて行ってあげたかった。
たった1つのこころ残りだ。
 
1980/10/06    2人目の孫
貢一、留美夫婦に 次女 誕生。
1986/04/04    勇退ご挨拶の看板を出す
「ご挨拶申し上げます。私開業以来早や33年になります。此の間色々な事があり 一つ一つが今では懐かしく思われてなりません。
私は頑固親父一徹、独自の営業方法でお客様には大変ご迷惑をおかけした事と思いますが 私は私なりに信念を持ってラーメン作りに専念したつもりです。
私事で申し訳ありませんが、近頃体調に自信がなく、長時間の立ち仕事に苦痛を感じる様になりました。
勝手では御座いますが、幸い子供もどうにか成長し 私に負けない程の腕に自信をつけた様ですので、安心して子供たちに実権を譲りたいと思います。
私と同じく無骨者ですが、今まで以上の御愛顧、御引立の程 心からお願い申し上げます。
 
昭和61年4月4日          頑固親父 」
 
 
以上、初代引退挨拶の看板より。
 
 
1993/11/10    先代の永眠
その日は突然やってきました。
家族も周りの方々も誰も予想が出来ない出来事でした。
 
大好きなお酒を飲んできて良い気分で先代が閉店後の深夜、本店に入ってきました。
スープの番をしていた2代目夫婦がスープが炊ける間に近所の初代宅まで送っていく事になりました。
 
家に着くと昔話や家族の話で楽しく盛り上がり気づくと深夜2時半。
そろそろスープが気になった2代目夫婦は店に戻る事にしました。
 
翌朝10時頃、先代の妻・静香からの電話
「お父さんの様子がおかしいとよ・・・」
 
駆けつけると布団に寝たまま先代・泰徳は永眠していました。
推定時刻は午前3時半。あんなに楽しく盛り上がったほんの1時間後です。
 
享年63歳。誰も予想の出来ない出来事でした。
苦しみも無くまさにぽっくりと、本人の希望通りの死でした。
 
後に不思議なことに商店街や近所の方々が口々に
「2〜3日前にウチに来て挨拶して行ったよ」
と言っていました。本人は知っていたのですかね?
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Last updated: 2007/5/14